光渦大義(こうかだいぎ)。
この四文字を思いついたとき、最初に浮かんだのは、冬の釧路の港だった。
冷たい風が吹きつける中、海面に映る街の灯りが、ゆらゆらと揺れながら渦を巻くように見えたあの夜。
あの光の渦の真ん中に、自分の「生きる理由」みたいなものが、ぼんやりと浮かび上がってきた気がした。
光は、ただまっすぐ差し込むだけじゃない。
時には渦を巻き、人を巻き込み、景色を一気に変えてしまう力を持っている。
その渦の中心に、自分が立つ覚悟があるかどうか。
そこに、俺の「大義」が試されているような気がしたのだ。
大義なんて言うと、少し大げさかもしれない。
けれど、俺はもう若くはない。
ただ目の前の売上だけを追いかけて、なんとなく日々を流していく生き方は、どこかで終わりにしなくちゃいけないと感じていた。
釧路の港で生きていく。
家族を守る。
店に来てくれる人たちの、心と腹を満たす。
そのうえで、自分の言葉と信用で、未来に何かを残す。
それらを全部ひっくるめて、「光渦大義」と呼ぶことにした。
俺の人生を振り返ると、静かな日よりも、渦のような日々の方が多かった気がする。
本州で働いていた頃、釧路へ戻る決断をしたとき。
父の会社を継いだものの、水産の状況が厳しくなり、現実を思い知らされたとき。
事業を畳み、新しく自分の道を探し始めたとき。
あの頃、心の中はいつもざわざわしていた。
「これでいいのか?」
「本当にこの選択で合っているのか?」
そんな問いが、何度も頭の中で渦を巻いていた。
でも、不思議なことに、一番苦しいときほど、頭のどこかに必ず一本の光が見えていた。
それは明確な答えではなく、「まだ終わっていない」という感覚に近い。
暗いトンネルの中で、かすかに出口の気配だけが分かるような、あの独特の感覚だ。
その光に向かって進むと決めた瞬間、周りの状況がどうであれ、俺の中では「覚悟」が固まる。
その覚悟が、やがて「大義」に変わっていく。
めしどきを始めたときも、そうだった。
決して、順風満帆のスタートではなかった。
資金的な不安もあれば、体力面の心配もあったし、うまくいかなかったときの怖さもあった。
それでも、カウンターの中に立ち、初めてのお客さんに料理を出したあの日。
「美味しかったよ、また来るわ。」
その一言で、「この渦の真ん中に立つのは悪くない」と思えた。
光渦大義の「渦」は、ただの混乱ではない。
人と人が出会い、感情がぶつかり合い、価値観が揺さぶられる場だ。
店というのは、まさにそういう場所だと思う。
忙しい夜、注文が重なり、厨房がバタつき、お客さんの笑い声と食器の音が混ざり合う。
その中心で、俺はフライパンを握りながら、何度もこう感じてきた。
「俺は、この渦の真ん中にいるために生きているのかもしれない。」
光渦大義の「光」は、俺ひとりのものじゃない。
店に来てくれるお客さんの笑顔。
一緒に働いてくれる仲間たちの頑張り。
家族がくれる支えや心配の言葉。
そういったものが全部混ざり合って、一つの光になっていく。
俺は、その光の中で、自分の役割を果たしたいと思っている。
それが、「大義」だ。
特別なことじゃなくていい。
世界を変えるような、すごい発明をする必要もない。
ただ、自分が選んだ場所で、自分にできることをやり続ける。
その積み重ねが、やがて誰かの人生にとっての「光」になるなら、それで十分だ。
釧路という街は、決して派手ではない。
むしろ、厳しさの方が目につくことも多い。
人口は減り、若い人たちは街を離れ、冬になれば一層冷え込む。
それでも、ここには俺の大事な人たちがいる。
この港町で生きると決めた人たちの、生活と物語がある。
その一つひとつに、光を灯したい。
光渦大義という言葉には、そんな想いを込めている。
俺は派手な経営者ではない。
数字だけを並べて語れるほど、スマートな商売もしてこなかった。
むしろ、不器用なほど真正面からぶつかって、失敗も山ほどしてきた。
それでも、不思議と諦めきれなかったのは、目の前に座る一人ひとりのお客さんが、俺にとっての「理由」になっていたからだ。
「今日もここに来てよかった。」
その一言のために、また明日も店を開けようと思える。
この感覚は、どんなマニュアルにも書いていない。
数字のグラフにも映らない。
でも、俺にとっては何よりも強い原動力だ。
光渦大義の「大義」は、誰かに認めてもらうためのものではない。
自分で決めて、自分で責任を持つものだと思っている。
どれだけ時代が変わっても、
どれだけ新しい技術が生まれても、
どれだけ世の中が便利になっても、
最後に「自分は何のために生きているのか」と問われたとき、胸を張って答えられるかどうか。
その答えが、「大義」なんだろう。
俺にとっての答えは、まだ言葉にしきれていない部分もある。
それでも、一つだけはっきりしていることがある。
釧路という街で、人の心と腹を満たしながら、自分の言葉で生きていく。
それが俺の光渦大義であり、これからも続けていきたい生き方だ。
この先も、きっと新しい渦がやってくるだろう。
思い通りにいかないことも増えるかもしれない。
それでも、渦の外から眺めているだけの人生は、俺には似合わない。
どうせ生きるなら、光の渦の真ん中に立っていたい。
自分で決めた大義を胸に、迷いながらでも前に進みたい。
そう思えるようになったこと自体が、俺にとっては大きな変化だ。
光渦大義。
この四文字は、ただのかっこいい言葉ではなく、
これからの俺の生き方を示す「旗」みたいなものだ。
この旗を掲げて、釧路の港から、また新しい一歩を踏み出していこうと思う。
▶ まとめ|光渦大義という生き方を選ぶ
・光渦大義は「光」「渦」「大義」の三つを合わせて、自分の生きる理由と覚悟を表した言葉。釧路の港で感じた光の渦が、その原点になっている。
・人生には、静かな日よりも渦のように揺さぶられる日が多い。その中心に立つと決めたとき、迷いの中から少しずつ「自分の大義」が見えてくる。
・大義は誰かに与えられるものではなく、自分で決めて、自分で責任を持つもの。釧路で生きると選んだ以上、この街と人たちに光を灯す生き方を続けていきたい。
・これからも、光の渦の真ん中に立ちながら、自分なりの大義を貫いていく。その姿が、いつか誰かの背中をそっと押す光になれば、それ以上の喜びはない。


