港町に根づいた三代の記憶
祖父が選んだ、風と潮の地
俺のルーツを辿れば、昭和3年にまで遡る。祖父はまだ未開の地だった北海道・西春別に家族を連れて移住した。極寒の風が吹きすさび、周囲には家も少ない広大な原野。誰もがためらうような環境を、祖父は「生きる場所」として選んだ。片田舎の一軒家に腰を据え、農業と漁業を組み合わせながら生計を立てたと聞く。物資も情報も少ない時代、祖父は自分の手で家を建て、井戸を掘り、生活の基盤を築いた。開拓民としてのその精神と根性は、まさに生きる力そのものだった。
父から継いだ覚悟と、俺の道
港町・釧路で育まれた芯の強さ
父は祖父の血をそのまま受け継いだ男だった。決して多くを語らないが、その働く背中には、祖父と同じ不屈の覚悟があった。釧路という港町での暮らしは、農地から都市部へと環境は変わっても、家族を守る姿勢にブレはなかった。寒風が吹く港での荷下ろし、朝早くからの配送業務、そして家に帰れば子どもたちに優しい眼差しを向ける父の姿。そのすべてが、俺の人格を形づくった。
小学2年の頃にこの町に移ってきた俺は、最初はよそ者だった。方言が違う。空気も湿っている。だが、魚の匂いと港のざわめきに囲まれて育つ中で、次第に“ここが俺の居場所”だと感じるようになった。友達ができ、アイスホッケーと出会い、毎日の暮らしのなかで「自分の根」を伸ばしていった。今思えば、釧路という場所は、俺にとって“根を張る覚悟”を学ぶ舞台だった。
親の背中が教えてくれたこと
父が働くトラックの助手席に乗った日々を今でも思い出す。無口だけど、一言ひとことに重みがある。「楽するな、楽しいことはその先にある」。そんな言葉が、幼心にも深く残った。楽を選ぶな、逃げるな、自分で責任を持て。父の姿勢は、後に俺が経営者として立つときの“土台”になった。
母もまた、黙々と家庭を支える人だった。弁当を作り、掃除をし、俺たちを見守りながらも、誰よりも家の中で“働いて”いた。親の背中を見て育つとはこういうことなんだと思う。言葉ではなく、行動で「生き方」を示してくれた二人の存在が、俺の「覚悟」を育ててくれた。
地元の景色が心に刻んだもの
釧路川にかかる霧。夏でも肌寒い潮風。市場の活気と、居酒屋の暖簾のゆれる音。その一つひとつが、俺の感性を育ててくれた。自然と共にある街の暮らしは、単に“地元”という意味を超えた。ここで育ち、ここで悩み、ここで笑った。だからこそ、この地で何かを残したい――そう思ったのは、もう少し先の話だが、芽はすでにこの時に芽吹いていたんだと思う。
当時の話を聞くたびに、俺は思う。たった一人の決断が、こうして三代にわたる「場所」と「生き方」を形づくったのだと。寒さや孤独、そして不安を受け入れたその背中が、俺の原点だ。どんな環境でも「根を張る覚悟」があれば、人は生きていける。祖父はそれを、言葉でなく行動で俺たちに教えてくれた。
釧路へ続く血の流れ
そんな祖父の生き様を受け継ぎながら、時代は流れ、家族は釧路へと移った。港町・釧路。西春別とはまるで違う、風が湿っていて、街がざわめいているこの町には、また別の生き方があった。祖父の「根を張る暮らし」から、父母は「流れに乗る暮らし」へと移っていったように感じた。工業都市として栄え、海産物の集積地でもあるこの街には、多くの人が行き交い、情報が飛び交っていた。子どもながらに感じたのは、「ここは俺のステージかもしれない」という直感だった。
小学2年のときに釧路に移住してきた俺は、この地の空気とリズムにどこか懐かしさを覚えた。寒さは変わらずとも、街の人々の温かさ、港の賑わい、そして「何かが始まる」気配に心が躍った。気づけば俺は、釧路という土地に自分の人生の一部を預け始めていた。祖父が選んだ大地、父母が選んだ街、そして俺が見つける未来。すべてはこの港町から始まった。
釧路を離れて見えた“本当の自分”
俺を試した本州での一年
高校を卒業してすぐ、俺は本州に渡った。静岡県富士市――工場の街、見知らぬ土地。王子製紙での勤務は、釧路とは違う風土、違う人間関係、違う時間の流れだった。24時間のシフト制。慣れない集団生活。話し方も違えば、価値観も違う。最初は“自分がここにいる理由”すら見えなかった。
だが、あの一年がなければ、たぶん俺は今こうして釧路で商売をしていない。あの孤独と不安が、自分の根っこをあぶり出してくれた。釧路での暮らしが、どれほど自分の“血肉”になっていたか――あの地を離れて初めて気づいたんだ。俺は港町の人間だった。風と魚の匂い、そしてあの湿った空気がないと、どうも調子が出ない。そう思えるようになった頃、自然と“帰ろう”という気持ちが湧き上がった。
第二の人生と、別の挑戦
釧路に戻った俺は、アイスホッケーの指導者として子どもたちと向き合う日々を過ごした。かつて自分が夢中になったスポーツを、今度は伝える側として見る。その視点の違いがまた、俺に新しい学びをくれた。「教える」ということは、「責任を持つこと」なんだと。言葉ではなく“背中”で語る――父と同じように。
その後、父の運送会社を継ぐことになった。だが、時代は大きく変わっていた。物流の波、水産業の低迷、そして地域経済の縮小。必死で踏ん張っても、会社の未来は見えなかった。悔しかった。でも、どうしても「守る」ことだけにしがみつくのは違うと感じた。だから、俺は決断した。会社を畳み、自分の手で“次のステージ”を作ることにした。
ゼロから始める覚悟
周囲からは無謀だと言われた。飲食経験ゼロ、経営ノウハウもなかった。けれど、俺には“港町で生きてきた”という確かな自負があった。誰よりもこの町を知り、この町で育った自分だからこそできることがある。釧路で飲む酒、釧路で食べる魚、釧路で語り合う夜――それを形にしたかった。
こうして、居酒屋「今なんどき めしどき」は生まれた。原点は、祖父が根を下ろした西春別。覚悟は、父の働く背中。そこに、自分自身の挑戦を重ねた店だった。
港町から、言葉と商売で未来を切り開く
“今なんどき めしどき”が教えてくれたこと
居酒屋を始めて、もうすぐ9年が経つ。初めてのことだらけで右も左も分からなかった俺が、ここまで店を続けてこられたのは、やっぱり“人”のおかげだと思ってる。観光で立ち寄ってくれたお客さん、地元の常連、漁師や港の仲間たち――この港町で交わされる会話が、何よりの財産だ。
料理はうまくなくてもいい。流行りの映えは要らない。ただ「おつかれ」と言える居場所を作ること。それが俺にできる、精一杯の商売だった。焼いたホッケの香り、ザンギの音、演歌の流れる夜――どれも俺の人生そのものだ。
言葉を資産に、人生を物語に
40代半ばを超え、ようやく気づいたことがある。それは、“言葉”にも力があるってことだ。釧路で生きたこの人生、誰も知らなかったこの道のり――それをブログやSNSで発信するようになって、共感や励ましの声をもらうようになった。「俺も挑戦してみようと思った」「大将の言葉に救われた」そんな声が、俺の背中をまた押してくれる。
「商売」と「言葉」がつながったとき、人生はもう一段上の景色を見せてくれる。ブログで稼ぐ。noteで収益化する。そんな話じゃない。大事なのは、“生きた言葉”を届けること。俺のストーリーを通して、誰かの明日が変われば、それが一番の価値だ。
未来へ――まだ終わらない挑戦
今の夢は、世界のどこかで「めしどき」をやること。笑うかもしれないが、俺は本気だ。釧路から始まり、海の向こうへ。年齢や肩書きじゃない。挑戦はいつでもできる。祖父も、父も、未開の地で“生きる場”を切り拓いた。だったら俺も、この手で“次の開拓”をやってみせる。
港町で生まれ、港町で生き、港町から発信する――それが俺の誇りだ。この町の風、この町の人、この町の暮らし。全部ひっくるめて、俺は“めしどき大将”として、ここに立っている。
そして今日も、こう言うんだ。「今なんどき?――めしどきだよ」
港町に根づいた三代の記憶
