:祖父の開拓と、俺の原点
昭和3年、祖父が選んだ極寒の大地
俺のルーツは、祖父が北海道に移住したことから始まる。昭和3年、まだ開拓の進んでいない別海町西春別の片田舎。祖父は家族を連れて、雪に閉ざされ、夏には湿地に覆われるその土地に根を下ろした。当時の北海道は、まさに「未開の地」。農具も道もなく、冬は凍えるような寒さとの戦いだったと聞く。
それでも祖父は言ったらしい。「ここで一旗あげる」と。希望と意地がなければ暮らしていけない過酷な土地に、祖父は自らの未来を賭けたんだ。その気骨ある背中が、代々の男たちに何かを託したように思う。
小学2年で釧路へ、人生の舞台が変わる
俺自身は、その後、小学2年のときに家族で釧路市へ移住した。開拓のにおいが残る西春別から、海の街・釧路へ。今でもあの広い空と、どこまでも続く白い雪景色を覚えている。港町のにぎわいと、漁船の汽笛。全てが新鮮で、まるで違う世界に来たような感覚だった。
移住した当時、街の空気に馴染めずにいた俺に、父はよく「ルーツを忘れるな」と言った。祖父が切り開いたあの土地の厳しさ、命を懸けた覚悟が俺の中に流れていることを、何度も何度も教えられた。
極寒の原点が、商売人としての血をつくる
気づけば、俺もまた、開拓者のように道なき道を選ぶようになっていた。雇われる道を外れ、自分の看板で勝負する人生。その始まりは、西春別で命を賭けて大地を耕した祖父の背中にあったのかもしれない。
ただ「商売がしたい」じゃない。「家族を守るために、自分の道を切り拓く」。それが俺の原点だ。
:氷上に立ち続けた青春と、仲間たちの絆
12人だけのチーム、それでも俺たちは戦った
中学でアイスホッケーと出会い、そこから俺の人生は氷の上にあった。高校では部員わずか12人。交代なんてなかったし、怪我をしても氷の上に立つしかなかった。俺はゴールキーパーを任され、1年の頃からフル出場。誰もが必死で、全員がレギュラー。選択肢なんてなかった。
それでも俺たちは、歯を食いしばって戦った。勝っても負けても、リンクの外に立つ仲間はいない。全員が氷上で闘っていた。チームメイトというより、まるで兄弟のようだった。
俺たちは「24の瞳」と呼ばれた
高校の廃校が決まり、生徒数が激減した時期、俺たちは最後のホッケー部としてリンクに立っていた。その姿は「24の瞳」と呼ばれ、地元のメディアにも取り上げられたことがある。
極寒の朝練、凍ったリンクの整備、学校からのサポートも十分とは言えない中、俺たちは己の意志でプレーし続けた。仲間の一人が「辞めるかもしれない」と言ったとき、みんなで止めた。1人でも欠けたら、試合ができない。ギリギリの人数で支え合っていたんだ。
苦しさが、俺を強くした
練習相手もいない。リンクも満足に使えない。なのに、負けるのが悔しかった。だから、走った。鍛えた。仲間とぶつかりながら、励まし合いながら、限界を超えた。そんな毎日が俺の根っこを作った。
振り返れば、この時期の経験が、今の俺の経営者としての粘りにも通じている。少人数で結果を出す。限られた資源で勝ちにいく。居酒屋の現場も、派遣の業界も、そう甘くない。だけど、俺は知っている。少人数でも「本気」で向き合えば、奇跡は起きるって。
この頃すでに、指導者の目線が芽生えていた
気づけば、後輩の面倒を見るのが当たり前になっていた。練習メニューを考えたり、技術を教えたり、先輩風を吹かせるんじゃなくて、本気で「勝たせたい」と思っていた。それが、のちにジュニアチームを指導することにもつながっていく。
俺にとってホッケーは、ただのスポーツじゃない。生き方そのものだった。
:父の背中を追い、俺が選んだ苦い決断
運送業を継ぐ覚悟、父の跡を継いだ日
高校を卒業し、本州の製紙工場で働いたが、たった1年で釧路に戻った。やっぱり俺の居場所は北海道だった。その後、アイスホッケーの指導者として活動していたが、父親の体調が悪化し、自然と運送業の後を継ぐことになった。
長年、父が背負ってきた小さな運送会社。漁港とともに生きる仕事だった。俺は会社を守りたかった。育ててくれた街に恩返しがしたかった。そんな気持ちで、がむしゃらに働いた。
海の街から魚が消えた
だが時代は変わっていた。漁獲高は年々落ち込み、依頼も減っていく。あんなに活気があった港が、静かになっていくのを目の当たりにした。水産関係の配送がメインだったうちの会社には、それが直撃だった。
取引先が廃業すれば、俺たちも仕事が無くなる。努力ではどうにもならない現実が、そこにはあった。支払いの目処が立たず、車両の維持費も膨らむ。気がつけば、自転車操業。どれだけ動いても、赤字が消えなかった。
悔しさと、自責と、涙
会社を閉じる決断は、人生で一番苦しかった。父が築いたものを、俺の代で終わらせてしまったという悔しさ。従業員の顔が浮かぶたびに、眠れなかった。
家族に「もう限界だ」と伝えた夜、声が震えた。息子の前で、情けない背中を見せた気がした。けど、嘘はつけなかった。「もう走れない」と、自分に正直になった。
それでも、終わりではなかった
一度すべてを失ったからこそ、見えた景色がある。俺はまだ、生きている。体も動く。人と話すのも好きだ。なら、もう一度やってみよう。今度は、自分の足で立って、自分のやり方で。
ゼロからでもいい。いや、マイナスからでも、這い上がってやる。それが、今の俺の原動力になっている。
:釧路の港で見つけた、俺の再出発
何もない俺が選んだ場所、それが“めしどき”だった
運送会社を畳んでから、正直しばらくは何もする気が起きなかった。でも、何もしないわけにはいかない。金もなければ、仕事もない。だけど、俺には「話すこと」「振る舞うこと」だけは残ってた。
だったら、もう一度人と向き合う仕事をしようと思った。そう思ったときに頭に浮かんだのが「居酒屋」だった。食と酒、人と会話。俺にできることを全部詰め込める場所。それが“俺の店”だ。
釧路港の「港の屋台」、9年目の誓い
場所は釧路フィッシャーマンズワーフMOOの2階、「港の屋台」。ここには昔ながらの漁師町の空気がまだ残っている。風の匂いも、潮の香りも、どこか懐かしい。観光客と地元民が交わるこの空間に、俺は惚れた。
今では、開業して9年。いろんな客が来てくれる。地元の常連、ふらっと立ち寄った旅人、台湾から来た観光客、時にはクルーズ船で来た外国人も。人の縁が、また新しい物語を生んでくれる。
「今なんどき めしどき」— 居酒屋に込めた想い
「今なんどき?」と聞かれたら「めしどきだべや」と答える。これは、ただのキャッチコピーじゃない。いつだって腹が減ってりゃ、うちに来い。そういう気持ちを込めた名前だ。
仕事帰りに寄るサラリーマン、ひとり旅の女性、近所のじいちゃんばあちゃん。どんな人でも「今、めしどきだ」と思えば入って来れるような、そんな場所にしたかった。
ここからが、俺の“人生勝負”
もう失敗は怖くない。だって、一度全部失ってるから。むしろ、またゼロから作れる喜びがある。居酒屋のカウンターに立つたびに思う。ここが俺の“リング”だと。
焼き魚の煙に包まれながら、ホッケを焼きながら、時にお客と笑い、時に語り、時に一緒に泣く。そんな毎日が、俺にとっての「生きてる証」なんだ。
:祖父の開拓と、俺の原点
